書籍 『一台の黒いピアノ...』

    シャンソン歌手のバルバラ(Barbara)がどうしても好きだ。彼女の震える喉から発せられる芯のある声が好きだ。彼女の紡いだ、聴く者の魂に指先で触れる様な旋律が好きだ。彼女がピアノの前に座る時、その凛とした佇まいが好きだ。だが、何より好きなのは彼女の目だ。陶酔しているのとは明確に異なるが、こちらを見ている様でいて見ていない。何か異次元が彼女には見えていて、そこに向かって歌っているかの様なあの目だ。
    今回私が読んだ、『一台の黒いピアノ...』は、バルバラが自らの死を前に、喪に服しながら記した雑筆を書籍化したものである。
    幼少期の、ユダヤ人の宿命たる戦時下の逃走の日々の記憶から、自作自演歌手として名声を得た後の事柄まで幅広く語られている。
     注目すべきは、「ゲッティンゲン」「ナントに雨が降る」等の傑作誕生の経緯が明かされている事だ。須らく、作品はそれ単体で完成されて然るべきで、評論やら、誕生秘話やらで価値が左右されては本末転倒の事態だが、恋とは一様にそういうものである。漠然と「好き」では満足出来ず、興味、羨望、探求、猜疑、詮索、そして破滅を辿る。そう、バルバラの作品に恋しているのだ。ただこの場合、相手の人格は己と同一化されている事が多いのと、そうでなくとも、対象に逃げられる心配はないので飽きる迄探求の旅に出れるのだ。
   雑筆の数々は、バルバラの追想から歴史の断片を浮かび上がらせ、それだけで価値を持つ物だが、そこより見えて来るのはバルバラの愛情の深さ。そして、その複雑さ。祖母、兄、弟、妹、恋人、音楽で知り合った人々、そして、父と母。一言で語り尽くせぬ思いを抱えて、その全てに愛を注いだ。信念を貫けばこそ、等と簡単に言い切るのは失礼に当たる程の激動の人生を経て、果たしてどれだけの人間がそれを出来るのか。
    私を恋に落とした"あの目"が見据えていたモノが、朧げながら私にも見えた気がする。

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    バルバラ(Barbara)をご存知無い方は一度、Youtube等でご覧頂きたい。当時の映像も沢山在ります故。